『体験入学』   第一章 起因の一葉(はじまりのひとひら)                       著:神無月     登場人物 第一章   柚川 武生(ゆずかわ たけお)……高校三年生の男子生徒。   酒匂 翠(さこう みどり)……高校三年生の女子生徒で、武生の同級生。   小山内 静子(おさない しずこ)……私立深山小学校の校長。   文月(ふづき)……「文月制服店」店員。   薬野 結実(くすの ゆうみ)……私立深山小学校の一年生。   序 「か、帰ろうよ、やっぱり。凄く目立ってるし……」 「何言ってるの。ユズカちゃんが悪いんでしょ。それに大きな声出すと、余計目立つわよ」  ユズカちゃん……柚川武生は赤くなって黙り込む。確かに騒いだ方が目立つが、どのみち周りから注目を浴びていることに変わりない。  そんな武生の様子に構わず、酒匂翠は彼の手を引いて私立深山小学校の門に向かう。入口には、「深山小学校体験入学 参加者入口→」という案内が出ていた。  二人は今日、この深山小学校の体験入学に来たのだった。正確には武生が参加「児童」で、翠がその姉、保護者と言うことになる。しかし、本当は二人は同い年。同じ高校に通う三年生の間柄だった。  とはいえ、武生のほうはとても高校三年生には見えない。第一に、背が低い。今どき中学生だって一六〇センチ近くはあるものだが、彼の身長は一五二センチ。童顔で、体つきも華奢なので、ぱっと見ただけでは中学生にさえ見えないだろう。  しかもその服装は…… 「大丈夫よ。ゆずかちゃん。ゆずかちゃんは中学二年生の女の子で、わけあって、ちょっと恥ずかしいけど幼稚園の制服を着て、小学校の体験入学に来ているなんだから」  翠は彼の耳元で囁き、武生の顔がさらに真っ赤になる。  そう、これこそが、彼が高校生の男子には見えないもう一つの理由だった。彼が着ているのは、この私立深山小学校に附属する幼稚園の制服。しかも、女児制服だ。ラインの入った丸襟のブラウスに、クリーム色のジャンパースカートをはき、同色のボレロをはおっている。襟元の赤いリボンがボレロからのぞき、頭には可愛らしいベレー帽。靴やバックパックさえ、女の子として違和感のない小物で統一されている。  いまの武生の姿は、身長さえ無視すれば、上品なお嬢様幼稚園の女子児童としか見えなかった。  翠はさらに続けて、武生の羞恥を煽るようなことを言う。 「ゆずかちゃんは本当は中学二年生なんだけど、学校のお勉強について行けないから、小学生からやり直すことにしました。だから今日は、幼稚園児として体験入学を受けて、周りの子たちと上手くやらきゃならないのよ。そうしないと、小学生としても失格なんだからね」  これが今回、身体の大きい彼が体験入学をするに当たっての口実だった。いくら小柄とはいえ、さすがに幼稚園生で通すのには無理がある。そのため、こんな嘘をこしらえて体験入学にこぎ着けたのだ。しかしこの嘘は、武生の心の中に、幾重にも歪んだ羞恥心をかき立てた。単に、高校三年生が幼稚園生に混じって体験入学をする羞恥だけではなく、周りから、中学生にもなって小学校からやり直さなければいけない女の子、と言う扱いを受けなければならないのだ。  周りには、二十代後半から三十代前半の若いお母さんたちが、幼稚園年長の子供の手を引いて歩いている。翠はそんな小学校の中を、案内に従って進んでいく。時折、周りのお母さん方に挨拶をする余裕さえあった。しかし、どのお母さんたちも、とりあえず挨拶は返すけれども、すぐに武生たちから離れていく。いくら武生が可愛い幼稚園の女児制服を着ているとはいえ、身長から来る違和感はどうしようもないのだ。二人は先ほどから、体験入学に参加する他の子どもたちや、その保護者から、不審と奇異の目を向けられ続けている。武生は本当にいたたまれなくなってきた。  敷地の広い小学校なので、校門から正面玄関までそれなりの距離がある。その道を歩く間、武生は、ここに至るまでの日々を思い返していた……。    第一章 起因の一葉(はじまりのひとひら) (一) 「見て見て、これ」  机に突っ伏して寝ていたところを呼びかけられて、柚川武生は顔を上げた。寝惚け眼で見上げると、目の前には、少し幼い顔をした同級生の少女、酒匂翠が笑っている。  放課後の夕暮れ時、三年五組の教室。大半の生徒は、予備校か、遊びにか、いずれにしても教室をあとにしている。武生は例外的に、遊びに誘った友人と別れ、この教室で一人眠っていたのだ。夕べ、今日提出の課題をぎりぎりになって思い出し、完徹で仕上げなければならなかったためである。できばえはさておいても、とりあえず提出しないとまずい課題だった。  予備校に行くまでに、しばらく時間はある。さすがに予備校の自習室では眠れないので、携帯のアラームをつけて、ぎりぎりまでこの教室の中で眠っていたのだが。  そんな彼を、翠は割と遠慮なく起こして話しかけた。見渡せば、周りには武生と翠以外は誰もいない。どうやら翠は、誰でも良いから話しかけたいモードに入っているらしい。誰もいないので、教室で寝ている自分を強引に起こしたのだ。明るく、楽しい性格の彼女だが、自分が話したいことがあるときは割と遠慮をしない。  そんな翠はにっこにこの笑顔で、A四の小冊子を武生の前に差し出す。 「どうよ、今度あたしの妹が通うことになった小学校のパンフレットなんだけど」 「……ぐぅ」 「寝るなぁ!」  翠に揺さぶられ、武生は諦めて起きることにした。わざとらしく欠伸をする。 「ふぁーあ。やれやれ。んでー、何だってここで気持ちよく惰眠を貪ってた俺を起こしたんだい?」 「自分で惰眠とか言わないの。……ねぇ、見てよこれ。あたしの妹が進学予定なのよ」  そう言って、翠が彼に見せたのは、私立深山小学校のパンフレット。このあたりでは有名な、名門小学校だった。制服のかわいらしさも人気だが、授業内容も通常の義務教育課程とは一線を画している。なかでも英語をはじめとする外語教育に重点を置いており、小学生にして日常会話で英語を使えるようになると、セレブなお母様方には大人気だ。  近くにあるというだけでその名声が聞こえてくるほどの小学校。翠の妹がそこに通うということは、 「妹さん、頭いいんだ?」 「もちろん。英語はかなりぺらぺらだし、このまえためしにTO*IC受けさせたら、あたしと大差ないのよ。嫌になっちゃう。まぁ、なんとか勝ったけどね」  ふぅん、と武生は適当に返事をしながら、パンフレットをめくる。翠はよく家族と海外旅行に出ており、本人も日常会話程度ならすらすらこなす。とうぜん、英語の成績も頭抜けていい。満点をとれないのは純粋に読解力の問題だと、英語教師から評されたほどだ。その彼女に迫る点数なら、自分は確実にその妹さんに負けてるな。武生は少しやさぐれた。  武生はいわゆる落ちこぼれではないが、成績に非常な偏りがある。国語、社会、生物は四や五が並ぶが、化学と数学は平凡。そして英語に関しては、常に赤点すれすれを低空飛行している。もはやbe動詞から分からないレベルなので手に負えない。受験の時は、英語のいらない大学を選ぶつもりだった。  外国に出るほどの覇気がなければ、べつに日本語だけで十分通じるのだ。わざわざよそ様の国の言葉を学ぶ必要もない。覇気のない人間が実用主義者を気取ると、不要なことには全く手を出さないものぐさが出来上がる。武生はその好例だった。  見るとはなしに、ぱらぱらとパンフレットをめくっていた武生だったが、 「ん、なんだこれ」  不意に指を止めた。パンフレットに挟まっている一枚のプリント。そこには、「体験入学申込用紙」とあった。書式に従って児童氏名などを書きこみ、参加したい授業を選ぶようになっている。  武生は、自らの運命を変えることになるその紙を手に取った。  (二)  用紙を見た翠は、用紙の上のほうに書かれている、「体験入学申込用紙」の文字を指差した。 「ああ、体験入学よ。入学試験の前に、学校での授業や給食を体験するの。いま五月でしょ。体験入学の二回目が、来月六月末に開かれるわけ。で、これがその申込書。まだ受付中よ」 「……試験前なのに、妹さんの合格が決まってるって、まさか裏口……痛っ」  馬鹿なことを言ったら、わき腹をつねられた。この翠という少女、相手を構わず容赦ない攻撃でも知られている。学年一のサディストという評判だ。 「変なこと言わないで。妹は外国語特別枠の推薦入学よ」  ようするに、外国語に秀でた児童を一般入試前に選り分ける枠らしい。改めて、翠の妹の語学力の高さをうかがわせる。 「で、柚川の知り合いでちょうどいい年齢の子がいたら、紹介してあげて。そのパンフレットはあげるから」 「……いないなぁ、そんな子」  世代格差があるので近所の子供たちについてはあまり知らないし、親類はみな自分よりも年上か、あるいは生まれたばかりだ。そんなことをぼんやり考えながら見ていると、翠が体験入学の申込用紙を手に取った。 「残念ねぇ。じゃ、使わないか。……ね、こう言うの見てると、何か書いてみたくならない?」  勧められて、改めて用紙を眺める。確かに使い道がないなら、とりあえずジョークで何か書きこみたくなるのが人情だ。 「そうだな。誰かの名前で適当に書いてみようか。えっと、さこうみどり……さこう?」  酒匂の字がわからない。「酒勹」まで書いたところで、ペン先が迷う。翠は軽く笑って、 「柚川武生でいいじゃない。どうせ冗談なんだし」  それもそうかと、武生は自分の名前を書き込む。後の性別の欄を見て、悪戯心が芽生えた。単に「男」ではつまらない。翠も同じことを考えていたのか、 「男じゃつまんないね。女にしよ、女に」 「よっしゃあ」  武生は勢いのまま、「女」にチェックを入れる。 「そうすると、名前のほうがおかしいね。変えない?」 「うーん、そうだな。何にしよう」 「ひっくりかえして名字をたけお……竹に、尻尾の尾で竹尾にしてさ、名前はゆずかわから……うん、ゆずかちゃんなんてかわいいじゃない」  翠はよどみなく答える。武生はその場のノリで、 「お、いいね」 と言いながら、「柚川武生」の文字を消して「竹尾ゆずか」と書きいれた。「竹尾ゆずか」「女子」の文字を見ると、武生は少し恥ずかしいような、おかしいような、奇妙な気分だった。 「授業は何にする? 深山だし、やっぱり英語?」 「そうだね。……苦手だけど」 「小学生相手に負けてどうするのよ」  くすくす笑う翠だが、さっきの話を聞くと冗談にならない。それでも「英語」に丸をつけ、給食体験にも参加希望を書き込んだ。 「保護者は? やっぱり酒匂?」 「そうね。貸して」  翠は保護者の欄に、自分の名前を書き込む。それならさっき、児童氏名を書くときに、酒匂が自分で書いてもよかったのに。武生はふとそう思った。  自分の名前を書き込んだ翠は、見せびらかすように武生の前に用紙を突き出し、 「じゃーん、できたっ。ほらほら、竹尾ゆずかちゃんの体験入学申込用紙よ!」 「はいはい。……出すなよ?」 「ふふん、どうしようかな」  面白そうに笑う翠。まぁ本気で出すわけがないし、出したとしても大した問題にはならないだろう。冗談でしたと頭を下げれば済むことだ。そう思って、翠と一緒に笑い合っている時、机の上の携帯が鳴った。寝る前に設定したアラームだ。 「やべっ。もう予備校に行かなきゃ。……じゃな、酒匂。冗談でも出すなよっ」 「善処しまーす。じゃ、お疲れ~」  荷物をまとめて教室を後にする武生。その後ろ姿が完全に視界から消えたのを見て、  ……翠が、にやりと笑った。  (三)  一ヵ月後。六月のさわやかな日差しがまぶしい、青と緑の季節だ。  そんな清々しい、初夏の空の下。 柚川武生はどんよりと曇った顔で、駅前の通りを歩いていた。隣には、酒匂翠がいる。彼女も、いつもとは違いやや暗い顔つきで、何かを探すようにあたりを見回している。 二人は別に、デートに来たわけではない。武生としては、できれば今すぐこの場を立ち去りたかったのだが、将来のことを考えると、とても逃げられない状況に至ってしまった。  ……一ヶ月前に冗談で作成した体験入学申込書。あろうことか翠が本当に送付してしまい、さらに抽選の結果、みごと当選してしまった。そうして翠の住所に「竹尾ゆずかちゃん 体験入学への案内」が届いたのだ。  さらに文末には、「多数の応募者の中から抽選で選ばれた体験入学の機会ですので、理由なく参加を取りやめることはご遠慮ください」と書かれている。これでは、今さら冗談でしたとは言いにくい。いや、この案内を受けた翠は、さっそく詫びを入れて参加を辞退しようとしたらしいのだが、そうは問屋がおろさなかった。  深山小学校は、その名声を駆使した情報収集能力をフルに無駄遣い(武生にとっては無駄遣いだ)して、酒匂翠の交友関係から「竹尾ゆずか」に似た名前を洗い出していた。その結果、同級生として柚川武生の存在が浮かび上がっていたのである。そして彼の存在を突き付けられた翠が、彼が申込書を書いたことを白状してしまったため、武生はこの騒動の主犯として、深山小学校から追われる身に至ってしまった。  たかが小学校と侮れないのは、深山小学校の校長は、教育界における膨大な人脈を利用して、あらゆる大学から彼を追放することができる点にある。……冗談みたいな話だが、教育者の世界も狭いらしく、ある程度有名な人になれば、大半のところに顔は利くらしい。高校三年、受験を控えた身にとっては、十分に効き目のある脅し文句だ。  そんなわけで、深山小学校の小山内静子校長から呼び出しを受けた二人が、彼女と面会したのが昨日のこと。二人はなるべく殊勝げに謝罪したが、小山内校長はそれだけで許してはくれなかった。この冗談に対する責任の取り方として、彼女が示した案は、二人にとって……とりわけ武生にとっては、恥辱と羞恥に満ちたものだった。 「冗談半分で申し込まれたうえ、そんな人が当選して結局参加しないのでは、他の本当に体験入学をしたかった子供たちに対して迷惑です」  校長の女性は若く、三十代前半。才媛と呼ぶに相応しい、引き締まった容姿ときっぱりした口調の彼女は、こんな風に切り出した。 「あくまであなた方は、体験入学をしたくて申し込んだのだ、ということにしなさい。つまり、柚川武生君は申込みの通りに、女の子として体験授業と給食体験に参加し、この学校に対する知識と理解を深めてください。酒匂翠さんはその保護者として、この学校の校風を見聞してください。いいですね?」 「で、でも、高校生が行くのは無理があると思います。確かに武生は小柄ですけど、幼稚園生に混じるのはいくらなんでも……」 「そうですね。では、中学生と言う事にしましょう」  翠の説得にも動じることなく、校長は即座に対案を出した。 「中学生の女の子が、学校の勉強についていけないので深山小学校でやり直したい。だからそれに当たっては、体験入学を受けて、小学生の中に溶け込めるかどうか試したい。……理屈としてはそんなところですね。多少恥ずかしい思いをするかもしれませんが、もとはと言えばあなた方の冗談が原因なのです。……異論は認めません」  話し合いではなく、ほぼ一方的な通告だった。校長はおそらく、高校生の彼らを強引に体験入学に引きずり出す方法として、これを考え付いたのだろう。武生が童顔で華奢、中学生の女の子としても通る容姿だからまだ良かったようなものだ。あるいは、ごつい男だったらあっさりとあきらめたかもしれない。そのあたりは微妙だった。  そんなわけで、六月末の日曜日には、武生は中学生の女の子として、小学校に体験入学しなくてはならなくなってしまったのである。  それに当たっては、色々なものを用意しなくてはならない。さいわい、その費用は、責任の一端を取る形で、翠が負担してくれることになった。しかしそれで買わなければならないものは、武生にとってとても歓迎できないものばかりになりそうだった。  その、用意しなくてはならないものの手はじめが……。 「……ここね」  地図を片手に街並みを見回しながら、何かを探している様子の翠が、不意に立ち止まって指をさした。その先にあるのは、「文月制服店」。深山小学校、及び深山小学校付属幼稚園の制服を取り扱っている、唯一の制服専門店だった。  体験入学に当たり、校長から言われたのが服装だった。体験入学の際には、それぞれの児童が所属する幼稚園の制服を着てくるのが暗黙の了解だ。それがない以上、附属幼稚園の制服を着てきなさい、と言うことだった。  制服店入口そばのウィンドウには深山小学校、並びに附属幼稚園の制服が、男女の夏服合わせて四着、トルソーに着せられて展示されている。店の前に立った武生は、思わずそのデザインに目を奪われた。 「……入るか」  武生は制服店のドアを開き、店の中に、その一歩を踏み出した。  (四) 「いらっしゃいませ」  中から出て来たのは、まだ若い女性の店員だった。おそらく大学生か、大卒直後。高校生の武生にとっては、「お姉さん」という年齢だ。セミロングの髪に、飾り気のないカッターシャツとジーンズ、胸元から銀のアクセサリをのぞかせている。 「お客様、何かお探しですか?」 「この子の制服をつくってほしいんですけど」  翠が武生の腕を引き、店員の問いかけに答える。店員はにっこり笑って肯いた。 「かしこまりました。どちらの高校でしょうか?」 「えっと、高校じゃなくて……ほら、武生、自分で言いなさいよ」  おい、この場面で振るか? 武生は内心でそう毒づいたが、しかし店員のお姉さんをいつまでも待たせているわけにもいかない。恥ずかしいのをこらえて、彼は言った。 「えっと……その、深山……学校付属……園です」  しかし「小学校」「幼稚園」と言うのが恥ずかしく、かれは小さな声で口ごもる。店員はそんな彼に、こう答えた。 「はい、神山高校ですね。わかりました。……採寸いたしますので、店の奥へどうぞ」 「あ、いえ、そうではなくて……」  聞き間違えられた。あわてて言いなおそうとする彼に対して、店員は、 「とにかくまずは採寸いたしますので、奥にいらっしゃってください」  と言って、カウンターの奥にある通路から、彼を店の奥に導いていった。採寸ならここでやっても良いはずだし、わざわざ奥に行く意味がわからない。どうなっているのか判らず戸惑いながら、翠も二人を追う。  店員が二人を案内したのは店の奥のある個室。一角にはカーテンで仕切られた試着室のようなスペースがあり、また、室内の棚にはいくつもの段ボールが並んでいる。この部屋は採寸・試着室に加え、どうやら倉庫としても使われているらしい。  案内された武生は、まずお姉さんから採寸された。襟、袖丈、股下、胸囲、腹囲、腰囲、エトセトラ。測り終わった店員は、「しばらくお待ちください」と言って出ていった。  やがて店員が戻ってくる。てっきり神山高校の制服をもってくるのだろうと思っていた二人だったが、店員のお姉さんが持って来たものを見た瞬間、思わず驚きの叫びをあげた。 「こちらになりますね。サイズは一六〇になります」  店員のお姉さんが手に持っていたのは、上品なクリーム色のジャンパースカートにボレロ、ベレー帽。それはまごうことない、深山小学校付属幼稚園の制服だった。彼女は楽しそうに笑って言った。 「ふふ、神山高校ではなくて、こちらの制服……それも女子制服でしょう? ときどき男性の方でお求めになるお客様がいらっしゃるので、大体わかるんです。挙動不審ですからね。……たいていお断りしているのですが、中にはお客様のように似合いそうな方もいらっしゃるので、そうした方には販売いたしております」 「へぇ。……いい趣味ね」  翠がうっすらと笑いながら、ぽつりとつぶやく。店員も、彼女と視線を交わして笑った。自分と共通したものを、お互い感じたのだろう。 「お褒めいただき、ありがとうございます。そんなわけで、こちらの制服はお客様にぴったりだと思いますよ。御試着なさってください」 「え、え……?」  女性二人がすぐに判り合えたのとは違い、武生は急な展開に戸惑うばかりだ。翠はそんな彼に、冷たく指示を飛ばした。 「ほら、どっちみちこの服を買いに来たんだから、早く着なさいよ。店員さんから白い目で見られて、変態扱いされながら着るよりはマシでしょ?」 「中にはそういう方もいらっしゃいますけどね、お客様はどちらのほうがよろしいですか?」  虫も殺さぬ笑顔で、店員はきついことを言う。武生は観念して、試着室のような空間に入ってカーテンを閉め、いま着ている高校の制服を脱ぎ始めた。シャツとズボン、ソックスも脱いで床に落とすと、 「はい失礼」  店員は足もとから手を伸ばし、服をすべて回収していく。下着一枚になった武生は、外から制服が差し出されるのを待っていたが、いつになっても服は入ってこない。逆に外から、 「お客様、下着まですべて脱いでください」  と言われて焦った。 「ちょ、待ってください。何もそこまでしなくても……」 「いえ、下着によって微妙な制服のラインを調整しなければならないので、着用をお願いします」  店員は断乎とした声で告げる。どのみちこのままだと下着一枚だ。武生は半ばやけになって、下着を脱いで床に落とした。それを、店員の手が回収する。  こうして武生は、少年としての一切の服を失った。  (五)  下着を持って行かれたあと、やっと外から服が差し出された。とはいえ一枚ずつ、まずはショーツとキャミソールが差し入れられた。  ショーツはコットンで、妙に厚ぼったくて股上が深い。色は白地にピンクのハート柄で、本当に幼稚園の女の子が穿くような、愛らしいデザインだ。手に持っているだけで、何か気恥ずかしくなってくる。ましてやこれを自分が穿くなんて、想像もつかない。  ゴムのついた口の両端を持ち、震える足を片方ずつ通していく。ずり上げていくとサイズがやや小さいのか、太股のあたりから、ゴムが吸い付くように脚を締め上げた。その感触に耐えながら、お腹まで引き上げて手を離す。ぱちん、とゴムがお腹まわりに当たる音が響き、武生は真っ赤になった。外まで響いたのか、二人が笑い交わす気配があった。  太腿の付け根とおへそのすぐ下にゴムが当たり、かなりきつく締め上げている。のみならず、おしりやペ*スのまわりもかなりきついので、嫌でもショーツを穿いていることを意識してしまい、それだけで妙に興奮してきそうだった。 「……っ!」  彼は頭を強く振って、もう一枚の下着、キャミソールに手を伸ばす。こちらも厚手の、白いコットン生地で、胸元に小さなサテンのリボン結び、裾にはピンクのラインがあしらわれたフリルがついている。こちらはかぶるように着ればいいのだが、サイズが小さいので下手をすると縫製が切れてしまいそうな不安がある。それでも腕を高く上げ、肩を細くするようにして通すと、上手く着ることができた。丈が足りないせいで、おへその所だけ小さくのぞいている。 「……っ、着ました……」 「着ましたか? じゃあ今度はブラウスですね」  今度差し入れられたのは、丸襟のふちに落ち着いたブラウンのラインが入った、上品なブラウス。パフスリーブの袖口は小さなフリルをあしらった上、ゴムですぼまっている。  武生はブラウスを羽織る。下着と違い、ブラウスは恐ろしく生地が薄く、キャミソールのラインが透けて見える。しかも丈が短い。キャミソールはおへそまで届かなかったが、ブラウスはそれにさえ届いていないのだ。下は女児用のショーツ一枚で、丈の足りていないブラウスを着る。いくら下がジャンパースカートだから仕方ない順序とはいえ、武生にとっては恥ずかしいことこの上ない。 「丈が短いのは、ジャンパースカートが夏服なので、子供が暑くないようにとの配慮からです。中に着るブラウスの生地を薄く、丈を短くすることで、上品で可愛らしいジャンパースカートを用いながら、風通し良く涼しく仕上げているんですよ」  店員が、解説を加える。武生にとっては、このうえからジャンパースカートを着ることを思い出させられて、憂鬱になるだけだった。 慣れない左前のボタンを留めおえたとき、武生はブラウスの両脇から、幅五センチくらいの短い紐が伸びているのに気付いた。脇の下と、裾のすぐ上の高さから一本ずつ、両脇で合計四本伸びている。何だろう、これは? 「ブラウスの着用、判ります?」 「えっと、両脇の紐は何ですか?」 「あ、その紐ですね。ご説明します」  言うが早いか、いきなり試着室のカーテンが引かれた。武生は女性二人の前で、ブラウスの下からキャミソールがのぞき、下半身はショーツ一枚という、何ともあられもない姿をさらしてしまい、 「や、やめてよっ!」  思わず悲鳴を上げる。しかし店員のお姉さんは、構わず試着室の中に入ってきた。 「まぁ、お似合いですね。でもブラウスは、きちんと着ないとおかしいですから、恥ずかしいかも知れませんが、我慢してくださいね?」  それならせめてカーテンを閉めて欲しかったが、店員のお姉さんはそれさえしない。おかげで、外に立っている翠からもまる見えだった。しかも店員は敢えて武生の横に立つようにして、翠が見る邪魔にならない位置に立っている。本当にいい趣味だ。  武生にとってはいたたまれない状況の中、店員のお姉さんは説明を続ける。 「こちらの前身頃をご覧下さい。ボタンが二つ、ついていますでしょう? この紐は脇からこう、前に回して、ゆったりしたラインのブラウスがぴったりと身体にフィットするよう作られたものなんです。紐は伸縮性のある素材で出来ておりますので、多少の体型の違いは問題ありません」  店員はそういいながら、武生の脇に手を伸ばし、ボタンを留めていく。ボタンは脇の下とお腹まわりの生地を固定して、彼の身体を締め付けた。また、紐の下でひだになった部分がまるでフリルのように波打っている。それを見た翠が言う。 「へぇ、可愛いデザインね」  武生は彼女を、恨みがましい目つきで睨んだ。ほっそりした彼の身体にフィットしたブラウスは、キャミソールのラインをすかし、何とも幼くみえる。それと同時に、本来ならこのようなブラウスを着るはずのない少年が着ていることと考え合わせると、いまの武生の姿は淫靡ですらあった。  (六) 「さて、次はジャンパースカートですね」  店員はクリーム色のジャンパースカートを、武生に手渡した。ベストとスカートが一体になったデザインで、スカートの裾にはブラウスと同じ、上品なブラウンのラインが入っており、その下からレースの付いたペチコートがのぞいていた。どうやら、スカート部分の裏に縫い込まれているようだ。 さらに腰の左右から、幅広で、本体のクリーム色をやや濃くした色合いを基調とするチェック柄のリボンが伸びていた。そしてベスト部分には同じ柄の布でくるまれた、四つのくるみボタンが付いている。 前のくるみボタンを外して着ようとした武生は、そのボタンが飾りなのに驚く。ひっくり返して背中を見ると、コンシールファスナーの先端が、襟首にのぞいていた。さらにファスナーの上の方、襟首に一番近い位置に、小さなホックも取り付けられていた。  ホックを外し、じぃーっ、という音とともにファスナーを下ろす。背中を広げ、片脚ずつスカートを穿く感覚は、武生にとっては初めてだった。床に着いたスカートの裾が広がるため、これを踏まないように注意しなくてはならない。特にスカートの下に縫い込まれているペチコートが、内側に広がるため、ちょっと油断するとたちまち踏んづけそうになるのだ。  スカートを穿き、そのまま上着を持ち上げる。そしてベストの袖口に腕を通し、肩紐を肩に引っかける。……ここまではよかったのだが、これから後ろのファスナーを閉めるのは、事実上不可能だ。襟首のホックを留め、ファスナーを上げようとしたものの、背中の半ばまで来たところで止まってしまう。いくらじたばたしても無駄だ。  気付けば、先ほどからそんな様子の武生を、女性二人が面白そうに眺めている。武生は顔を赤くして、どうせ言っても無駄だろうと判りながら、思わずこう言った。 「見るなよっ!」 「……そう、判ったわ」  意外なほど素直に、翠は背中を向けた。店員も、カーテンを閉めてしまう。  かえって驚いた武生だったが、すぐに彼女たちの意図に気付いた。……武生一人では着られないのだ、この制服は。お坊ちゃま、お嬢様幼稚園のデザインで、子供自身の着脱のしやすさよりも、見た目と、子供が勝手に脱いだりできないようにすることを重視しているのだ。  武生は唇を噛んだ。今すぐこの場でこの制服を脱いで、ここから飛び出していきたい衝動に駆られたが、そんなことをすればこれから先どうなるか、考える程度の冷静さはあった。武生は屈辱にさいなまれながら、外に声を出した。 「……その、手伝ってください」 「あら、見なければ手伝えないわよ」 「…………っ!」  翠のつれない返事に少し泣きそうになりながら、武生は声を震わせる。 「見ても良いから……その、手伝って……」 「そう、なら開けるわね」  開けたのは店員ではなく、翠だった。にぃっと笑い、わざとらしく尋ねる。 「で、手伝うって言っても、あたしはどうすればいいの?」 「……ファスナーを、上げて……」 「ファスナー? どこの?」  わざとだ。わざと武生の口から言わせて、辱めようとしているのだ。それが判っていながら、武生には彼女の意図に従うしか、道は残されていない。 「ジャ、ジャンパースカートの、背中のファスナーを……」 「ふぅん。高校生の男の子が、幼稚園の制服のファスナーを上げてくれって頼むなんて、よっぽどこの女児制服を着たいのね。……いいわよ、後ろ向いて」  顔を真っ赤にして後ろを向く武生。その背後に立った翠は、大きな音を立ててファスナーを上げていく。 もはや一人で脱ぐことさえ叶わないジャンパースカートのファスナーが、翠の手で、ゆっくりと閉じられていった。  (七)  ジャンパースカートを着るには、まだ仕上げが必要だった。  腰の両脇についた、幅広のチェック柄リボンだ。これは背中側で蝶結びをして、ウェスト部分を押さえると同時に、可愛らしいアクセントにするものだ。しかし後ろ手に、左右のバランスを整えた綺麗な結び目を作るのは難しい。ここでも武生は、ファスナーと時と同様に、「ジャンパースカートのリボンを結んでください」と言わされた。  ファスナーを閉じ、リボンが結ばれると、ジャンパースカートのラインがくっきりする。ペチコートが入っているのでスカートの裾は軽やかに広がり、きゅっとしまったウェスト部分との対比が美しい。リボンの両端はわずかにスカートの下まで垂れ下がって、この上なく上品なアクセントになっていた。  もう一つ、この幼稚園の制服の可愛らしいアクセントは、襟元に結ぶリボンだ。女子高生がつけるようなホックで留めるタイプではなく、柔らかな深紅のリボンをネクタイ結びにする。リボンの終端には丸い縁飾りがついていて、他の部分より少し幅広になっていた。そのため、襟元で美しく広がる。  武生にとっては普段慣れているネクタイ結びだったが、そのネクタイ結びさえも難しい。ネクタイと違って短いのもあるし、結んだときに前に出る終端に、扇のような広がりと、美しいひだをつけなければならないのだ。四回ほど結び直して、やっと店員から合格をもらった。  その上から羽織るのは、すぼまった袖の縁に濃いブラウンのラインが入った、半袖のボレロ。ボレロの袖は絶妙な長さで、下から僅かにブラウスの白い袖口が覗くようになっている。仕上げに白いボンボンの付いた、クリーム色のベレー帽をかぶり、白いレース付きのソックスをはけば、深山小学校附属幼稚園の可愛らしい制服姿の完成だ。  しかも、身長一五二センチの武生に着せられたのは、一六〇サイズの制服。つまりそれは、 「あら、だぼだぼで可愛いわね。サイズが大きいのかしら」  翠が笑う。そう、店員があえて大きめのサイズを持ってきたため、その制服は武生の身体にフィットしていないのだ。ジャンパースカートは、リボン結びしてあるウエスト部分以外はあちこちに余裕があるし、ボレロも肩の部分に大きくふくらみがある。しかしそのゆったりした制服は、武生をよりいっそう幼く見せていた。  唯一短いのは、スカートの丈だ。軽く、膝がのぞくくらいの長さ。こんな所だけ……と、武生は軽く唇を噛む。 「良くお似合いですわ、お客様。……どうでしょう、せっかく採寸いたしましたけれど、少し大きめの方が可愛いと思われます。このままでよろしいんじゃないでしょうか」 「……うーん、そうね。でもせっかくだし、この子の体型にぴったりしたものをつくって欲しいわ。彼のために作られた制服って言うのも、とても良いと思うし」 「そうですね。かしこまりました。ネームはお入れいたしますか?」 「もちろん、あと……」  女性二人が、彼を辱めるための会話を繰り広げる中、武生は呆然と鏡を見ていた。  小柄、童顔、女顔。高校生とは思えない、中学生みたい、妹よりも女の子っぽく見える……。いままで色々な人から様々なことを言われてきたが、自分では早く背が高くなって、大人になりたいと思っていた。女顔と言われても、女装する気はないと反発するだけだった。  しかしこうして女の子の服を……それも、幼稚園児が着るような服を着ても、さほど違和感のないことに、自分でも驚いていた。確かに髪の毛は少し短いが、ベレー帽に隠れてあまり目立たない。 「あらあら、この子、自分の姿に見とれてるわよ」  翠がくすくす笑って言う。誰がこの子だ、と言おうと思ったが、先ほど見た自分の姿が脳裏をよぎり、反論のしようがなくなる。確かにこれでは、「この子」と言われても仕方ない。 「……いいから、着替えさせてよ。もう試着は終わりでしょ?」  武生は精一杯冷たい声で言う。しかし翠はくすくす笑ったまま、 「まだよ。色々小物を揃えないとね。靴とか、バッグとか。……そんなわけで、行くわよ」 「ま、待ってよ!」  翠は自分と彼の鞄、両方を手に持って、この部屋から店の中に戻っていく。店員もそれに続き、武生は一人室内に取り残された。彼が着てきた制服は、この部屋にはない。翠が彼の鞄の中に入れて、持って行ってしまったのだろう。どのみちあったとしても、ひとりでは着替えられないのだが。  ここにいても埒は明かない。武生は他の客が来ていないことを神様に祈りながら、店のほうに向かっていった。  (八)  その武生の祈りは、どうやら神様とやらには無視されたらしい。  店内には三〇代くらいのお母さんと、小学校低学年の女の子が来ていた。カウンターのすぐそばで、店員と話している。店の奥から店内に入り、翠を探すためには、どうしてもそこを通らなければならない。早くどこかに行ってくれないかと思いながら通路の影で見ていた武生を、先ほどの女性店員がめざとく見つけた。 「お客様、どうぞ出てきてください」 「あら、どなたかいるのかしら」  店員の声にお母さんが応じて、武生は出て行かざるをえなくなった。なるべく目立たないように出て行った途端、女の子が彼を指さして声を上げた。 「あーっ! ママ、あれ、ヨウチエンの服だ!」 「あら、本当ね。ユウミちゃんが去年まで着てた服ね」  と言うことは、この女の子は小学校一年生。しかも深山附属にいたと言うことは、いまは深山小学校にいると見て確実だった。ツインテールで目がぱっちりした、活発な感じの女の子だが、挙措にはどことない上品さが漂っている。女の子は上品な仕草で、小首をかしげた。 「でもママ。あの人、シンチョウたかいよ。ユウミよりも、お姉ちゃんだよね? マリ姉ちゃんよりも、お姉ちゃんだよね?なんでヨウチエンの服着てるの?」 「さぁ、何でかしらね。きっと何か訳があるのよ」  お母さんはちょっと意味ありげに、店員に目線を送る。店員は肯いて、少し笑った。 「でも、ユウミちゃんはあの服を卒業したのよね? あっちの子より、ユウミちゃんのほうがお姉ちゃんなのよね?」  店員にそう言われたユウミは、ちょっと戸惑ったように武生を見て、また小首をかしげた。しかしやがて得心がいったらしく、にっこり笑って誇らしげにこう言った。 「うん、ユウミのほうが、あのお姉ちゃんよりもお姉ちゃんだよ! ……あれ?」  自分の言い方に妙なものを感じたのか、ユウミはあどけない表情で首をかしげる。店員とお母さんはくすくすと笑い、武生はものすごくいたたまれない状況になった。小学一年生の女の子に、「自分のほうがお姉ちゃん」と言われているのだ。  顔を赤くして黙り込む武生。しかし店員は、さらにとんでもないことを言いだした。 「それにね、ユウミちゃん。あの子、お姉ちゃんじゃないわよ? 男の子だから、ユウミちゃんにとってはお兄ちゃんかしら。でも、あの子よりもユウミちゃんのほうがお姉ちゃんね」 「えーぇ!」  ユウミは驚いたように、武生を見る。お母さんは「やっぱり」というように笑っただけで、驚いたそぶりはない。どうやらこの店員の悪癖については重々承知のようだ。ユウミは武生を見ながら、 「だって、だって、あれ、オンナノコの服だよ? オトコノコは着ちゃいけませんって、センセー言ってたもん。なんでお兄ちゃんが着てるの? ねぇ?」  言われても、武生は貌を赤くして唇を噛むだけで、答えることなどできない。そんな彼にかわり、店員が答えた。 「あの子、ユウミちゃんよりも年上の男の子なんだけど、女の子になりたいんだって。女の子になって、幼稚園に入りたいんだって。だからユウミちゃんはあの子のお姉ちゃんよ。だってユウミちゃんは幼稚園を卒業したし、女の子としてもずぅっと長く過ごしてるんだからね。あの子はまだ、女の子になってからほんの少ししか経ってないの。だから、ユウミちゃんはあの子のお姉ちゃんになってあげて? ね?」 「んーっ……」  ユウミにとってはちんぷんかんぷんだったのだろうが、それでも何となく話の流れは掴んだらしい。にっこり笑顔になると、 「うん、ユウミ、あの子のお姉ちゃんになってあげる!」  そういって、とことこと武生のほうに歩いてくる。 「お兄ちゃん……って言うのもヘンね。アナタ、でいいかな。うん、ユウミがアナタのお姉ちゃんになって上げる。あたしはクスノユウミ。アナタは?」 「え、えっと……その……」  小学生から「お姉ちゃんになって上げる」と言われた武生は、状況について行けず、どう答えたらいいかも判らず、戸惑いながらもじもじした。それを見たユウミが、小さな胸を張った。 「お兄ちゃん、ユウミよりもトシ……トシウエ、なんでしょ? 自分のお名前くらい、判らないの?」 「ぅ…………」  女の子にバカにされ、武生は一瞬目をきつく閉じた。しかしそれで現状が打破されるわけでもない。彼はやがて、こう答えた。 「ゆずか……竹尾、ゆずかって言います。ユウミちゃん、仲良くしてください」  (九)  自分で女の子の名前を名乗るというのは、武生に対して予想した以上の動揺を与えた。どんなにそれが、やむを得ず言わされたものであるにせよ、自分から女の子の名前を名乗ったのだ。それはつまり、自分で自分をそのように規定したと言うことに他ならない。 「ゆずかちゃんかぁ。可愛いお名前ね」  恥ずかしさと、自我の動揺を招くほどの自己紹介だったが、ユウミはそれで満足しなかった。 「でもね、ゆずかちゃん。あたしのほうがゆずかちゃんよりお姉ちゃんなのよ。だったら、あたしのことをお姉ちゃんって呼ばないと、おかしいんじゃない?」  ユウミは武生にそう言って、同意を求めるように、向こうで見ている女性二人を見る。店員も、お母さんも、しごく当たり前のように肯いた。  屈辱に泣きそうになりながら、武生はユウミに答えた。 「ご、ごめんなさい、ユウミお姉ちゃん。ユウミお姉ちゃんは、ゆずかよりもお姉ちゃんです」 「はい、よく言えました。いい子ね」  ユウミは背伸びして、武生の頭を撫でようとする。ぎりぎり武生の頭に手が届き、武生は小さな女の子に頭を撫でて誉められるという、男子高校生としてはありえない経験をした。 「文月さんも、相変わらずね」 「なかなか可愛い子でしょう。できればこれからも来て欲しいくらいです」  ユウミのお母さんと、文月と呼ばれた店員が、笑い交わしながら囁きあう。やがてユウミのお母さんが、娘に声をかけた。 「ユウミ、そろそろ行くわよ。……それじゃ文月さん、ゆずかちゃん、またね」 「はぁい。文月お姉ちゃん、ゆずかちゃん、またね!」 「はい、ユウミちゃん、またね。それじゃ薬野さん、またどうぞ」 「…………ユウミお姉ちゃん、バイバイ……」  ここで返事をしないと、またどんなことになるか判らない。武生は大人しく、「ユウミお姉ちゃん」に返事をした。  それを見た文月が、含み笑いをする。 「良かったわね、ゆずかちゃん。早々とお姉ちゃんができて」 「……ふざけないでください」  武生はじろりと、精一杯の怖い表情で彼女を睨む。 「なんでこんなことするんですか! ……女の子の服着るのだって、別に俺の趣味って訳じゃありません。俺とあいつの態度見てれば、十分判るでしょうに……なんで、あんな恥ずかしいこと言って、あんなことさせるんですか!」 「まぁ怖い」  文月はそんな彼に、やはり笑った。一瞬沸騰しかける武生だったが、次の瞬間、文月は彼に思い切り顔を寄せ、彼の顎を軽く掴んで自分のほうに向けながら、真剣な表情と低い声で、立て続けにこういった。 「でもね、柚川くん。趣味でないんなら、貴方がこんな恥ずかしい服を着る理由はただ一つ。やむにやまれぬ事情があるからでしょう? だからこそ、深山附属幼稚園の制服を着なくちゃならないんでしょう? ……だったら捨てなさい、そんなつまらない意地は。理由があるから恥ずかしい服を着なければならない、そちらのほうが貴方にとっては大切な事情のはずよ。むしろここで恥ずかしい思いをしてまで守り抜く矜恃、そいつを見せてみなさい。  ここで小さな意地にしがみついて、貴方が本当にしなければならないことを見失うのか。それともここで恥を忍んで、大局を考えた行動をするのか。……さぁ、どうするの」 「……っ! だからって、あの場面であんなことを言わなくたっていいはずだ!」  正論と判っていながら、なおも武生は食い下がる。確かに事情があるのは間違いない。しかし先ほどの対応は、明らかに彼を辱めるためのものだ。覚悟を試すとかそんなことでは、ごまかされない。しかし文月は、涼しい顔でこういった。 「ならこれから、あんな風に女の子として扱われることがどれだけあると思っているの? あんなこと、これからいくらだって出てくるでしょうに。……こっちの部屋で貴方が来るまでの間に、少し翠さんから事情は聞いたわ。なら、一刻も早く女の子として扱われ、女の子として振る舞うことに慣れた方が良いんじゃないかしら? 体験入学で男の子だってばれたら、とんでもないことになるんだからね」  言うだけ言って、文月は武生の顎を押し、顔を離した。よろめく武生に目もくれず、彼女はカウンターで、先ほどの親子の注文票を書き入れ始めた。  (一〇)  屈辱と、言い返せない悔しさに身を震わせながら、武生は文月のそばを離れた。店の一角で、翠が何やらバッグを選んでいる。武生の姿を見ると、翠はにっこり笑った。 「やっと来たわね、ゆずかちゃん。ねぇ、どれがいいかしら?」 「……、……うん、これかな」  諦めたような口調で、武生が答える。翠が武生に示した複数のバッグは、幼稚園児向けから高校生向けまである多種多様な通学鞄の中で、特に幼い女の子向けの可愛らしいデザインのものばかりだったが、さらにその中から武生が選んだのは、とりわけベビーピンクの鮮やかな、小さなバックパックだった。つまり、この店で一番女の子らしいデザインのものだ。しかもビニール生地ではなく、しっかりした革製のもの。長い期間使うことを前提にした、ちょっとした高級品だ。  翠は一瞬驚いたように目を開いたあと、武生の意図を理解したようだった。 「……そう、判ったわ。ならちょっと背負ってみて」 「うん」  言われるがまま、武生は素直にバックパックを背負う。リュックと違い、箱形のそれは、肩紐を調節すると背中にぴったりとフィットする。武生は口元に笑みを浮かべ、 「大丈夫だね。……これでいいよ」 「あ、あともう一つ。幼稚園生の定番は、これでしょ」  そう言って彼女が渡したのは、女の子向けキャラクターのプリントが施された、園児用の真っ赤なショルダーバッグ。武生は特に感想もなく肯いて、それを肩に斜めがけする。  こうしてバッグまで揃えると、幼稚園児の制服を着て、小物まで揃えた彼の姿は、本当に身長さえ無視すれば、幼稚園に通う年頃の女児としか見えない。 「あとは、靴ね」  翠がシューズ売り場に向かい、武生もバッグを背中と肩にかけたまま、大人しく彼女に続く。いくつもデザインがある中で、武生はピンクと白のローファーを選び、「あまりピンクばかりでも」という翠の意見で白のローファーを選んだ。……また、しばらく「ゆずか」として外に出て、女の子の練習をしましょうという翠の意見を受け入れて、武生はそれ用に、ピンクの可愛いスニーカーを選んだ。白地にカラフルな花柄のメッシュに、上からピンクの飾りを施した、可愛らしいデザインのものだ。同じデザインでパウダーブルーのものもあったのだが、武生は敢えてピンクを選んだ。中学生の女の子だって、こんなデザインの物は選ばないだろう。しかし武生には、迷いはなかった。  武生は持ってきた靴を脱ぎ、白いローファーを試し履きした。女物、しかも子供用のものだったが、なんとか一番大きいサイズがぴったり合った。同じサイズだから、スニーカーのほうもぴったりだ。 「うん、これで完璧ね。……すいません、お会計お願いします」  翠は文月を呼び、武生が選んだ物をカウンターに載せていく。文月も二人のやりとりは遠くから見ていたようで、武生と目が合うと、ぱちんとウィンクした。 「頑張ってね、柚川くん。お姉さんも応援してるから」  武生はそれに、少し笑って肯いた。だから次に文月が言ったことをきいても、それほど動揺しなかった。 「じゃ、今日はこのまま帰りますか? 次回いらっしゃるときにお返しいただければ、お持ち下さって構いませんから」 「……どうする、武生?」  二人が、武生を見る。  武生は、力強く肯いた。  ……そんなこんなでこれから一ヶ月、武生は幼稚園の女の子として振る舞うよう、翠から様々な「訓練」を受け、六月最後の日曜日に当たる今日この日、体験入学に参加している。  武生はいま、深山小学校の敷地内を、翠に手を引かれて歩いている。あの制服店での覚悟は、文月の雰囲気に流されたものでしかなかったことを、いまの彼なら断言できる。全く、幼稚園児の制服を着てあの店を出たのは、大きな間違いだったことを。  そのあたりのことは、正直、武生にとっては思い出したくないことばかりだ。  ちょうどよく、目の前には、小学校の玄関が見えてきた。  武生は覚悟を入れ直して、他の子供に挨拶をした。 「こんにちは、竹尾ゆずかです。よろしくお願いします!」